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2001年7月7日土曜日

花咲き村の谷津田物語

田んぼは水とお日様が命である。花咲き村がやっているような谷津田は苦労する。まず、山間の田んぼということで、樹木に遮られて、お日様が入りにくい。さらに、自然の沢だけに依存しているので、水の確保がお天とう様次第となる。谷津田は、昔、まだ米が貴重で田んぼにできそうなところは、無理矢理にでも田んぼにしたところなので、条件は悪い。
 しかし、今、谷津田での米作りは「なりわいとしての農業」ではなく、ある種の社会教育、環境保全という意味あいを重くしている。森林と一体となっている谷津田だからこそ、というおもしろさがある。つまり、山も沢も田んぼも一体となって相互につながっているということが実感として理解できるのだ。
 花咲き村の谷津田に、多くの子どもたちが来る。子ども会や学童保育のグループ等々。今年は高校生グループも来た。ただの米作り体験では終わらない深さを持っていることを活用しない手はない。
 田んぼを維持しようと思ったら、山を管理せねばならない。保水力を高め、日当たりをよくし、水の確保のために池を掘ったり。池には様々な生き物が暮らし、水生植物も育つ。  そればかりではない。谷津田には歴史がある。花咲き村がやっている田んぼは、戦後の農地解放で小作の人に払い下げられた歴史もあり、農地解放という歴史を学ぶことができる。

 花咲き村が田んぼをやり始めたのはかれこれ十数年前のことだ。私が森林組合での山仕事を請負でやっているころだ。大久野の山を歩いていると、あちこちの山間に小さな田んぼの跡がある。うち捨てられてから相当に年月を経ているらしく、どうにか畦の跡が確認できる程度のものが多い。こんな小さな、それも条件の悪いところでも田んぼを欲しがっていたのだ、という昔の人の思いが伝わる。そういうなかで、比較的まとまって、それもまだ畦も水路もしっかりしている田んぼがあった。うまいことに、所有者は森林組合で一緒に働いていた神田さんだ。話はトントン拍子で、花咲き村が田んぼをやるという活動がはじまったのだ。
 田んぼの作業は経験があった。小さい頃、ずいぶん、やらされてきた。当時は、なにせ子どもだから遊びたい盛りだ。手伝いをさせられるのだから、楽しいと思ったことはない。しかし、不思議なもので40歳を過ぎた頃、なんだか小さい頃、手伝わされた田んぼをやりたくなった。
 育ったところは、大分県の山の中、川の両側に棚田が広がる。典型的な中山間地の農業である。多分、8反ぐらいの田んぼがあったのだと思う。今のような機械化はされておらず、すべて手作業である。耕運機もまだない時代だ。動力は牛だ。家にも牛を飼っていて、田を耕やし、代掻きするのも牛。小学生も6年生ともなれば、代掻き程度のことであれば牛を使う。当然、牛のエサをやり、世話するのも子どもが中心だ。
 田植え、稲刈り、脱穀など小さな子どもも総出で手伝うことが必要だった。なかでも、田植えは農家にとって、一大イベント。近所の人たちも互いに労力を貸しあう、いわゆる「結い」の方法。子どもも小学5,6年生ともなれば確かな労働力になる。田植えなど力のいらない仕事では、充分に一人前だ。「おまえは、仕事は速いが雑」とよく言われたのを思い出す。
さて、このころ、「田植え休み」というものがあった。田植えの季節、3日ぐらい5,6年生は田植え休みがあって、学校に来なくて田植えを手伝え、ということだ。今の子どもたちが体験で、田植えをするのとは時代が違う。
 この小さい頃、習い覚えた手が花咲き村で田んぼをやるとき、大いに役に立った。今になって、田んぼの手伝いをさせられた環境に感謝している。あの頃は、子どもが手伝うことが当たり前のこととして米作りが成り立っていたから。
◆「戦後すぐ、大久野地区での米作りの様子」
花咲き村が田んぼをやるのを様々な側面から支援してもらっているのが、神田十四男さん。今年、82歳になる。その名が教えるように、大正14年生まれである。神田さんには、苗の提供から、脱穀の指導と、あれこれとお世話になっている。田んぼでわからないことは神田さんに相談してきた。
神田十四男さんに話を聞いた。
神田さんによると、大久野地区に田んぼはかなりあったという。それらはある時、畑にかわったり、宅地になったりで今では田んぼの面影すら見ることができなくなってしまっただけの話だ。
神田さんは「日よう取り」として、また小作として田んぼの仕事をしてきた。神田さんの田んぼの所有は、小作として作っていたところが、戦後の農地解放で自作地になったそうだ。
昭和20年、30年代の頃、米作りが元気な頃、田んぼの所有者が全部、家族総出で田植えをするということでもなかったらしい。田植え職人を雇うのだ。神田さんはこの田植え職人もしていた。
当時は、機械化される前だから、当然、耕すのは牛馬、大久野では馬が主力だったという。なぜか。大久野は林業の町だった。山から伐採した木材を運び出すのに、馬は不可欠。いわゆる「馬車引き」を生業とする人がいたわけで、その人たち、馬方と呼んでいたそうだが、その馬方が田んぼを耕すという仕事もしていたのだ。
そして、その代掻きする馬方の相方が「早植え」と呼ばれた田植え職人である。馬方と早植えが組んで、頼まれた農家に行き、代掻きをして、田植えをしたという。昨今、大型の田植機やコンバインを持って、頼まれ農家に田植えや稲刈りを請けおうというスタイルの元祖みたいなものと考えればいい。
田植え当日、朝の5時に頼まれた農家に行く。そして、朝ご飯を食べ、作業にはいる。午前中に苗取りをして、午後から田植え、相方の馬方は苗取りしている間に代掻きするということだったらしい。
仕事は、かなり大変で、1日にひとりあたり5畝(1反の半分)が最低のノルマだったという。実質、田植えは半日だから、1日中、田植えだけをやれば、1反を植えてしまうことになる。花咲き村の田んぼ面積でいえば、ひとりで1日半で植え終わることになる。花咲き村が80人で大騒ぎしているのと大違いだ。やはり、田植え職人である。
神田さんは今でも田植えにヒモをひいたり、線をかいたり、というやり方はしない。最初に基準となるヒモをひいたら、それに合わせて、あとはひたすら目視で間隔をはかり、休みなく植えていく。神田さんの話だといちいちにヒモを引いてやるのとでは、早さが1.5倍は早くなると言う。また、請負だから互いに競争のようにしてやっていたそうだ。田植えをやったことのある人はわかると思うが、ヒモを引いて植えていくと、1列植えたらヒモを移動するちょっと時間があって、ここで腰を伸ばせる。このすき間時間がないのだ。相当に腰が痛かったろう。
そのかわり、待遇はかなり良かったという。3食付きで、晩飯には酒、魚がついてのご馳走だったそうだ。日当も、平均的なものの倍くらい。田植えは昔も6月の上旬。10日間程度の短期決戦だからこういう方法が必要だったのだろう。
 そして、昭和40年代になると大久野から田んぼが急速に姿を消し始める。働き口が増え、米を作るより外に働きに出て、米を買う方が安上がりとなる。田んぼは水路維持が必要でない畑に変わる。人が増えれば宅地化も進む。米作りをやめた谷津田には、価格が高かった杉が植えられた。しかし、谷津田に植えられた杉はやわらかい土ゆえ、20年も経つと風や雪で多くは倒れ、谷津田の跡としての姿を再び見せた。
ひとつひとつの田んぼに様々な、多くの汗が流されてきた。そして、時の流れとともに、人々の生活の変化とともに、歴史の中にも生きてきた。その中で、今、活かされ、米が作られているわずかな谷津田は貴重である。
◆「日の出町に残された田んぼ」
日の出町の森では、昔、谷津田だったのだろうと思われる田んぼ跡があちこちに見られる。日の出町では田んぼは貴重なものだった気がしていた。先日、役場経済課から「日の出町水稲・陸稲作付け面積」(農水省耕地面積統計)という資料をもらった。昭和28年からの米の作付け面積の統計表。これを見ると、かつては日の出町でも田んぼは多く、また、陸稲(おかぼ)も多かったようだ。一番、作付けの多かった昭和35年を見ると、水稲50ha、陸稲26haで、計76haもの稲作が行われていたとある。あちこちで話を聞いてみると、あそこも田んぼだった、ここも田んぼだったという話をよく聞く。今は宅地になったり、畑になったりで、わすか1haのみ。
この統計を見ると、昭和46年あたりから48年にかけて、40ha以上あった水田が一気に10ha以下に激減している。聞くところによると「カドニウム汚染」が見つかったときに米作りをやめた農家が多かったそうだ。また、この時期は日の出町の人口が急増したときでもあり、宅地開発された時期とも重なっている。さらに高度成長で農業から離れる人が増えたり、米を買った方が安上がりという気分が広がったという時代背景もあるようだ。 そして、昭和48年頃から3年間で1haずつ減っていくという経過をたどり、現在、1ha程度の貴重な存在になってしまった。おそらく担い手であったお年寄りが亡くなるとそのまま放棄されたのだろう。
今、日の出町で稲作をやっている現役田んぼは7ヵ所ある。いわゆる谷津田と呼ばれるところは4ヵ所だ。羽生地区には、2ヵ所。そして、水口地区で花咲き村がやっている2ヵ所。平井地区には日の出団地の下に1ヵ所。これら、ほとんどが1反~2反程度の小さなものであり、全部あわせても1町(1ha)程度だが、日の出町でわずかに残された「貴重な田んぼ」である。
 田んぼを維持するのもなかなか大変である。山の水だけでは足りないところは、川からポンプでくみ上げたりもする。それに、田植えや稲刈りを手作業でやったとしても、脱穀、籾すりなどの機械がないとできないという事情がある。存在そのものが貴重といっていい。
最後に。
田んぼがわずかしか残ってない日の出町では、田んぼは貴重だ。田んぼに戻せるところは、できるだけ戻したいと考えている。しかし、昔、田んぼであったところでも、根で広がるヨシが増えているとこれを退治するのはなかなかの労力で難しく、また、水路が壊れてしまっているところも水の確保が難しくて田んぼとして復活するのは大変である。それでも貴重な地域の財産だ。活かしてこそ意味がある。
子どもたちに米作り体験をさせたいというグループがありましたら、花咲き村が相談に乗ります。ご連絡下さい。

花咲き村 園田安男