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2002年7月7日日曜日

思い出の山、思い出の川

◇自己紹介に変えて

 森林ボランティア活動を始めた頃、どうしてこういう活動を始めたのか、よく聞かれていた。意識の下に、小さい頃の体験があると感じ、小さい頃の思い出を「森づくりフォーラム」の通信に書いたものである。


1)「エゴノキとゲラン」

故郷は大分県の山国町というところだ。文字通りの山の中だ。山を見れば、スギ林と椎茸の原木のためのクヌギ林がモザイク模様をなしている。山間に棚田が広がる。しかし、集落に住む人は減り続けている。生まれ育った集落では、10数件のうち半数がひとり暮らしだ。最初は山が放棄され、次は田んぼ、そして空き家が増えていく。東京でのノンキな生活がどことなくうしろめたい気分になる。
 さて、そんな故郷も昔は子どもも多くて、大にぎわいだった。あのころは、ただ遊んでばかりいたわけでなく、小さいながらも働くということもその中にはあった。この、遊びと仕事がわかちがたく結びついているような感じが何だか今の森林ボランティア活動と似ているような気がする。そんな子どもの頃の話。

エゴノキって、知ってるだろうか?雑木林など、どこでも見られる木で、春先に白い花を咲かせ、初夏にはここぞとばかりに、たわわな実をつける。形といい、色といい、見るからに何か薬になりそうな雰囲気の実だ。先輩たちの言い伝えに、このエゴノキの実をつぶして、それにコショウと灰をまぜて川に流すと魚が浮いてくるというのがあった。これを「ゲラン」と呼んでいたのだが、どんな意味かはいまだにわからない。そんな簡単なことで魚が浮いてくるのかよ、と言いながらも子どもたちは試してみる。
さっそく手ごろなエゴノキを見つけ、バケツ一杯の実をつぶして、言われたようにコショウと灰をまぜた。そして、川に流した。しかし、魚は浮いてこない。ただ、水が濁っただけだ。だまされたんじゃないか。子どもたちはそう思った。だいたい、大人というものは子供をだまして、からかって楽しむという存在だったから。ちなみに、私は今でも青年たちをだまして、この「伝統」を受け継いでいる。一度、近所のおっさんからいいものがポケットに入っているから手を入れてみな、といわれ、スモモでも入っているのかと思い、すぐに手を入れた。が、にゅるっとした感触。中にいたのはヘビだ。おかげで、今でもヘビは嫌いだ。みんな、あのおっさんのせいだ。
 それはともかく、お手軽に魚を捕る「ゲラン」作戦は失敗した。あのときは、だまされたと思ったが、中学になって理科で偉大なことを教えてもらった。それは、「濃度」という概念だ。つまり、川の水量に比べて流したゲランの量が少なすぎたのだ。大きくなって聞いたところによると、そのまま川にゲランを流すのではなく、水をせき止め、水量を少なくして流すということだった。さらに長じて、植物図鑑を見るようになって、確かにエゴノキの実にはサポニンという成分があり、魚を麻痺させるとあるではないか。まんざらウソではなかったのだ。ただ、コショウと灰を混ぜるという意味はいまだに未知のものだ。 そうだ、今年の夏、もう一度ゲランを試してみよう。

 7月上旬はホタルの季節。最近、故郷の山国町ではホタル見物でにぎわっているそうだ。お袋は、俺たちの子どものころよりすごいかもしれない、という。一時は農薬のせいで、ホタルもツバメも姿を消していたのに。あのころだって、田んぼに水ひくイゼ(水路)の上にホタルの光の川ができていたが、それよりすごいってどんなにすごいんだろ?ホタルは栄えても集落はやせ細っている。一度、ホタルを見に帰ろうか、と思う今日この頃。


2)「遊びで覚えたことは」

夏の子どもたちの遊びはたいがいが川である。夏休みなど、それこそ毎日、川に泳ぎに行く。子どものころ泳いだ山国川の上流は冷たい。1時間も泳ぐと唇は真っ青になる。夕暮れまで川で遊ぶ。通った高校は山国川の河口の街だ。高校になってびっくりしたのは泳げないやつがいるということと、何時間泳いでも身体が寒くならないということだった。水が生ぬるいのだ。
川での遊びは魚捕り。夏休みは「カシバリ」をつける。カシバリは竹ヒゴに40cmくらいの紡績糸、その先にハリ。えさはミミズ。仕掛けるのは夕暮れ時。仕掛ける場所はシワ(川の中の石と石の間の隙間)の中。ひとりで40丁くらいのカシバリをつける。朝、5時前に起きて上げに行く。うまくすればウナギが2匹くらいはかかる。あとはドンカチが4、5匹だ。ドンカチが標準語で何という魚かは知らない。ウナギがかかると大喜び。すぐに蒲焼きだ。暴れるウナギの頭に釘を打ち、すべらないように左手でトゲトゲのあるカボチャの葉で押さえつけ、背割りする。東京に来て、ウナギ屋の店先でさばく職人さんの見事さには驚いた。ウナギの習性を知っているのだ。カボチャの葉など使いはしない。ひとなで、ふたなででウナギはおとなしくなっている。
「夜ぎり」もおもしろかった。夜中の1時すぎにガス灯を持って川に行く。寝ぼけた魚をウナギバサミでつかまえるのだ。しかし、夜ぎりでウナギを捕った覚えはあまりない。ハエなどはよく捕れたが。ガス灯のカーバイトのにおい、真夏だというのに足がきれるほどに水が冷たかったことがよみがえる。
ガス灯に使うカーバイト。水と反応してアセチレンガスを出す。こういうのはすぐに遊び道具になる。近所のおっさんたちがこのカーバイトを使う大砲を作った。モウソウ竹の大きいのに針金を巻き付け、節に粘土の弾をつめる。竹の中には水とカーバイト。導火線に火をつけると、ドッカーンとすごい音がして、粘土の砲弾が飛んでいく。竹はバラバラだ。よい子はまねしないようにね。
俺たちもさすがに、これは怖くてまねできなかった。そのかわり少しおとなしめに応用する。カーバイトでのロケット遊びだ。カーバイトのかけらに水をかけ、そのうえに缶詰の缶を伏せる。そして、導火線で点火する。缶詰の缶は勢いよく、それこそ4mくらいは空に飛び上がるのだ。この種の爆発ものは危ないがゆえにか、子どもの冒険心をさわがせる。今、いろいろと思い出してみると、危ない遊びの方がよく覚えている。遊びは危険があってこそおもしろかった。また、危険を感じるからこそ頭を働かせるし、工夫もする。 こうして、コントロールすることを学んでいく。どの「程度」が許されることなのか、力量に見合うことなのかを知る。絶対的に安全ということはない。「危ないからやってはいけない」のではなく、どこまでが大丈夫かをという程度を理解すればいいのである。そして、安全であるために技術を上げようとする。刃物という道具だって同じことだ。「肥後之守」という小刀にどれほど世話になったか。
 小さいころ、自然相手の遊びで学んだのは、たぶん、状況によって違う危険の度合いは身体で覚えるしかなく、安全であるためには知識と技術が必要ということである。自然を相手に遊ぶことは本当に重要だ、大人になっても。「環境保全」という能書きよりもはるかに本質的ではないかと思ったりする。

3)「労働が教えることは」

小さい頃はよく働かされた。田植えなんぞ小学6年生の時分には、お袋と同じ程度にやれた。一人前である。大人も子どもも競争でやっていたから楽しくもあったし、工夫もした。早く植えられるポイントは苗持つ左手の使い方だ。左手の親指と中指を使って、苗を4本ずつ位に区分けしていけば右手はそれをとって植えるという作業だけになる。右手でいちいち分け取っていたのでは、時間がかかってしようがない。「次の作業を考えてやる」というのを覚えた気がする。
夏は田の草取りと畦の草刈りである。畦の草刈りなど朝の涼しいうちにやる。ブヨがでるから、「ブヨぶち」というものを腰にぶら下げていく。ブヨはどうも木綿をいぶした煙が嫌いなようで、木綿の布きれをワラでくるんで、それに火をつけ煙を出す。蚊取り線香より効果はあったのだろう。
畦にはたいがい、大豆か小豆が植えられていた。花咲き村で田んぼを始めた頃、これを思い出して小豆を植えたことがある。ところがこれは失敗だった。畦の草刈りをそんなにしょっちゅうやれないのだ。子どものころは牛を飼っていたので、牛のえさとしてこの畦の草を必要としたのだった。だから、田んぼのため、というより、牛のための畦の草刈りだ。結果、畦に植えた豆も育つというわけである。
いろんなことが連鎖していたことに、そのとき、初めて気づいた。このごろ、里山の風景をありがたがって、里山の保存を、などとよくいわれる。しかし、さまざまに連なりあって里山の在る生活があったわけで、部分だけを保全するというのは難しい。つまりは、地域という場所的、時間的空間としてトータルな視点が必要なんだと思う。

花咲き村で田んぼをやろうという話になったとき、「経験があるから」と別に不安に思うこともなかったが、それはちょっと違った。日常の管理、特に水取なんてメンドーなことがとても大事なことなんだと、やり出して気づいた。子どものころは、たとえ一丁前に作業ができたとしても、所詮は「お手伝い」である。収量がどれほどなんてロクに関心もなかった。
「収量」で思い出すのはよく「技師さん」がまわって来ていたことだ。稲の様子を見て、あれこれアドバイスをしていた。農業改良指導員というような立場だったんだろう。現場にいつもいて、農家の相談相手、そういう人たちがサポートしていたのだ。振り返って今、現場に密着している林業改良指導員っているのだろうか。過去のものとなってしまったのだろうか。
花咲き村の田んぼには大勢の子どもたちが参加する。学童保育の子どもたち、地元の子供会。しかし、この場合、仕事ではなく、あくまで体験だ。体験は必要だが、当然にも責任はない。できれば、子どもたちも収穫までの全課程に関われるような方法はないものか。 「学ぶ」という意味からも、もっと子どものころから「働く」ということが必要なのだ。 雨が降らねば日照りを心配し、台風が来れば稲が倒されるのでは、と不安になる。6月に一緒に田植えをした子どもたちのどれほどが、この冷夏を気にしているだろう。


4)「山を手伝う」

田んぼや畑仕事と同じように、子どもたちは山での仕事を手伝わされた。1965年頃だ。子どもたちにとって、山での仕事は、どこまでが手伝いで、どこまでが遊びかわからないようなことが多かった。
 春休みの仕事は、たいがい、親父とスギの雪起こしである。
 雪で曲がったスギに登り、ワイヤーと荒縄をかけ、そのワイヤーをジャッキで起こし、起きたところで荒縄でくくって、あとはワイヤーをはずして、一丁上がり。
 そのときの親父のかけ声をよく覚えている。1本起こすたびに、「はい、3千円!」。この1本3千円がどの段階での値段かは知らないが、とにかく3千円で売れていたのだろう。
 この時代の3千円はすごい。
 高校時代は中津で下宿していた。このときの下宿代が4畳半3食賄い付きで、6千5百円だったから、3本スギを売れば、高校生が一ヶ月暮らせることになる。
 中学3年の時、お袋が山に連れて行って、スギ山を指して円を書いた。「これだけのスギを売るから、これで高校3年間、生活しろ」といった。ほんのわずかな面積だった気がする。こうして、スギのおかげて、高校に行くことができたのである。その意味では、今でもスギにはうんと感謝している。多分、同じようにスギの世話になって大きくなった人はたくさんいるはずだ。だから、今になってスギを毛嫌いするヤツはバチが当たるぞ、といっておこう。日本の山村を支えてきたのだから。
 ただ、悲しいことに、高校に行かせてくれた山は今、荒れ放題で、トホホな状態だ。あまりいばったことはいえない。
 さて、伐採し、木材を出した後、残ったものは薪として使う。残らず、取りに行く。これはまったく子どもたちの仕事だった。自分たちが運べるくらいの量を取ったら、あとは日が暮れるまで遊んで帰る。
 今から考えれば、ほとんど何もない状態での地ごしらえは簡単だったに違いない。
 さらに、条件の良いところでは、この後、山を焼くのだ。「カンノ焼き」と呼んでいた。
 カンノ焼きは、大人数を必要とするし、その時の天気が大きく影響するから、その日にならなければやれるかどうかはわからない。地域のビッグイベントだ。
 お袋の話だと、いつか隣の山に広がって大騒ぎになった、というようなことがあったらしい。危険も伴うのだ。
 このカンノ焼きにも子どもたちは動員される。
 夕方から始まる火入れ。火は上から徐々に降りていく。焼けた後に子どもたちが張り付かされる。境界のところに篠竹を持って、立たされるのだ。「こっちに火が回ろうとしたら、これで消すんだぞ」と言われながら。山火事の恐ろしさは充分に知っているから、それなりに緊張していたことを思い出す。
 とにかく、大勢の人手がいる時、子どもたちも猫の手以上に期待される。人数で勝負、というような仕事には子どもたちもよく使われていた。
 カンノ焼きといえば、このところ全くやらない。山焼き自体が難しくなっただけではない。もともとカンノ焼きというのは「焼き畑」であり、スギを植えた間に小豆や里芋を作るというのが目的だ。いわゆる「アグロフォレストリー」。
今、山村は過疎で、耕地に不自由はない。それに、人よりイノシシの方が多いのだから、芋を植えてもイノシシがあっという間に食い尽くしてしまうだろうし。
 こんなことをあれこれ思い出してみるに、山へのありがたさは、結局のところ、関わり方による気がする。一般的に空気や水、環境にとっての役割を教えられてありがたがるより、具体的にどれだけ多く汗をかいて、つき合ったかによるのではないだろうか。


5)「山で遊ぶ」

秋から冬になると、子どもたちの遊びの場はいっぺんに山に移っていく。大分の山の中だから、雪は降ってもスキーやソリで遊びができるほどのものではない。しかし、椎茸の産地だ。クヌギ山があるのだ。クヌギの下は、牛のための草刈り場だ。冬はここにクヌギの葉が積もる。ソリをやるにはぴったりの場所だ。ソリは、木馬(きゅーま)と呼ばれた。そう、木材を山から運び出す木馬が原型で、それを人がひとり乗れる程度の大きさにして、魚屋からもらってきたトラ箱をつけたり、の工夫をする。ただただすべって降りるだけではつまらなくなる。一度、もっとスピードを出そうと木馬の足に竹をはかせたことがあるが、これはスピードが出過ぎて下の田んぼまですっ飛んでしまった。一瞬のスーパーマン。けっこう、怖かった。
 怖い、でも子どもたちは冒険や探検が大好きだ。だから、なんでもやってみる。今でも怖かったと思い出すことがある。洞穴(ほらあな)探検ごっこ。田舎は大昔の阿蘇山の噴火でできたところだそうで、洞穴がたくさんあった。それに潜り込む。洞穴の天井にはコウモリがびっしりだったが、小さな穴が迷路のようにあちこちに延びている。子どもが這ってどうにか通れるくらい。もぐっていくのだ。どこにつながっているか、入ってみようということになる。お調子者が先頭だ。いつぞや、すごく怖かったのは、穴がどんどん狭くなり、あげくに下がっていく。頭からつっこんでいる身としては、戻るに戻れない状態。後ろには数人が続いているし。なんとか抜けだすことができたときには、心底ほっとした。 もうひとつ、冬の子どもたちの遊びは、鳥のワナを仕掛けることだ。いわゆるギロチン式のワナだ。多く掛ける者もいるが、普通は10丁程度だ。カッチョやガシが主な対象となる。「捕ってどうするの?」などと聞かれることがあるが、食うに決まってる。正直、それほどうまいとは思わなかったが。
ワナの見回りは、放課後、1時間くらいかけて毎日回る。4、5人くらいが一緒になって。しかし、どうして子どものころは、あんなにたくさんのワナを見落おとすことなく見回れたのか、不思議に思うこともある。
ワナを掛けるのは、たいがいカシやシイの、いわゆる照葉樹林だ。ここには別の遊びもある。かなり密生しているので、カシノキに登って、ゆすって反動をつけ、となりのカシノキに飛び移る、などして遊んでいた。ここでも一瞬のスーパーマン。というより猿だね。 当然、ターザンごっこもやる。ターザンごっこのおもしろさは、いつカズラが切れるかわからないところだ。切れれば、一瞬のスーパーマン、それも失速したスーパーマンだ。  どの遊びにしても、冒険する気分が入っている。安全を約束されてやっているのではない。どちらかというと、危険があるからこそおもしろかったのかもしれない。それに危ないことをやる方がみんなから「尊敬される」という雰囲気もあったし。
 山での遊びがおもしろかったのは、山がそこにあることが日常だったからであり、また、集団で遊べる仲間がいたからだと思う。これが2~3人で遊んでいたら、つまらなかったに違いない。
 山が遊び場として許されている環境だ。子どものころは、この山は誰それの山だと所有者を意識したことはなかった。今でも、遊んだ山が誰のだったかは知らない。
 こんなふうに自由に山で遊べる環境がどこにでもあるといいんだが。今はやりの「冒険遊び場」などが都会の公園ではなく、山がフィールドだったらもっと楽しいと思うよ。
 森林ボランティアなどといって山に入っているが、山での遊び場確保でもある。山を所有してはいないが、ボランティア活動のおかげで自由に遊べる山は増えている。


6)「帰去来兮~帰りなんいざ~」

振り返ってみれば「森林ボランティア」とよばれる活動のイメージは、小学生の頃、山で遊んだり、手伝ったりしたことがベースになっているような気がする。
 仕事かといえば、仕事ではない。かといって、遊びかといえば遊びだけ、とも言えない。森林への関わりで、この中間的な空間がなくなっていたのだ。林業に関わってない人たちが山に関わる術(すべ)がなかったのだ。
 このシリーズで伝えたかったことのひとつは、労働と遊びの中間的な関わりを許していく「人と自然との関わり方」がもっとあっていいんじゃないかということだ。
 子どものころ、自分の家の山かどうかにかかわらず、そこに山があればそれが遊び場となりえた。遊び場としての森林は「自由な空間」だった。「自由な空間」が失われたのは、山で遊ぶことが少なくなり、結果、山で遊ぶルールが、遊ぶ方も所有者も地域社会も、みんな忘れてしまったからだ。ルールどころか、森林の存在すら忘れてしまう昨今。
 高度成長のかけ声とともに物質的豊かさをがむしゃらに追求して来るところまで来た社会には、別の道も浮かび上がる。今風にいえば「スローライフ」などという言葉が表現する生活スタイルだ。生活の豊かさの基準を換えてみようという流れである。
 森林ボランティアが「自由な空間」の確保をもって、「人と自然との豊かな関わり」を体現する新しいスタイルになるといいと思っている。そこで汗を流すことは、経済的な見返りのある労働ではなく、外部に働きかけて自己を表現していくという本来の労働として、である。

 もうひとつ言いたかったことがある。
「森林ボランティア」が目先の効果を言い過ぎている、いわば意味付与することが多すぎやしないか、ということだ。
10数年前に花咲き村で放置林での整備をはじめたときは、社会的な意味や環境のためなどという能書きは何も持たなかった。果たした結果に意味付与したに過ぎない。森林ボランティアが「環境保全」とか「社会貢献」として強調され過ぎるのは、どことなく落ち着かない。いや、おれだって、どこぞで講師などに呼ばれて話すときにはこういう類のことを大声で言うのだが。
ま、実際のところ、「地球温暖化を防ぐために森林活動している」と意識的に言えて、持続している人が何人いるんかいな、ということだ。ざっと見たところ、全国6万森林ボランティアのうち、100人だね(数字がいいかげんなものであるのはゆーまでもない!)。  意味づけは活動の社会性を表現し、多くの人を誘う入り口にはなりえるが、意味づけだけでは活動は持続しない。森林を育て、つくりあげる楽しさを感じ取れる身体感覚と社会的意味をうまくつなげる工夫がいる。
 森林ボランティアの底辺の広がりが、日常の暮らしにある森林、暮らしにむすびついた森林とつきあえる社会環境を創造できたらいい。そして、ここが重要なのだが、その社会環境は「森林を感じる身体」が基礎となる。「身体が共鳴する森林ボランティア」である。


最後に

これまで書いてきた話は、だいたいが小学5~6年生のことのことである。中学生になると、また気分は変わってくる。もう手伝いというより「仕事」という感じになってしまう。「イヤだなあ」という気持ちが頭をもたげ、「やらされている」という気分で一杯。早く大きくなって、こんな田舎を出ていきたいと誰もが思ったものだ。そして、高度成長はそれを実現し、みんな東京にでて来た。
そして、40年が過ぎ去り、「思い出の山、思い出の川」が、心のパラダイムを転換する。「帰りなんいざ、田園まさにあれなんとす」。
 山を楽しいと感じる感覚を育んだ「思い出の山、思い出の川」は忘れない。

花咲き村 園田安男